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日曜日は教会へ「主日礼拝式のご案内」8月10日

タカサゴユリ140807 (6).jpg

「立秋」を過ぎて、暦の上では秋になりました。
教会の庭ではユリの花(タカサゴユリ)が開花を始めています。
明日の日曜日、台風の動きが気になりますが、
日曜日は主日礼拝式です。
足元に気をつけて教会へお出かけください。

2014年8月10日【聖霊降臨節第10主日】
川越高階キリスト教会主日礼拝式 説教:杉浦紀明牧師
「一羽のすずめ」ルカによる福音書12章1-12節
(ルカによる福音書講解説教47)

<住所>350-1136
埼玉県川越市下新河岸74-2 TEL.049-244-5392(FAX兼用)
<交通アクセス>
東武東上線「新河岸」駅下車。タクシーで7分、徒歩25分。 ←こちらがおススメ。

*なお、JR川越線・東武東上線「川越」駅東口から川越シャトル「南文化会館」行きで
「下新河岸」停留所降車徒歩5分も利用できますが、バスの本数僅少につきご注意を。
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コメント 1

nanboyanen

 失礼します。御一読をお願いします。
 ほとんどの教会が、聞く耳を閉じています。聞くという責任があるのではないでしょうか?
 また、不正だと、スパムだと称してコメント投稿も拒絶するところも多い状況です。
 また、アクセス拒否とか卑劣な耳ふさぎをしています。
 また、コメント欄を消しているとか・・、極端な字数制限をしたりと・・
 また、メールアドレスを明記しないとか、聞いて答えようという姿勢が全くありません。
 この様な状況でよいのでしょうか?この様な聖職者の姿勢で良いのでしょうか?
.
 題:キリスト教よ・・悔い改めよ・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は・・、
 「人の上に立つ事ではなく、人の下に立つ事である」と言う。
 キリスト教の聖書にも、この様に書かれている・・が・・、
 これを、キリスト教聖職者は、「謙虚であれ」と教えているのだと、補足して、説いている。
 その聖職者の言葉がなければ、聖職者の説明がなければ、成立しない話なのだ。
 キリスト教の聖書には、この様な表現が多い。
 直球勝負の説明ではない。
 素直な言い方ではない。
 しかし、この言葉を聞いて、思うことは・・、
 キリスト教は、手前味噌のキリスト教の聖職者は、神の次の地位にあり、『人々より上』というヒエラルキー(序列)の組織を作り、それを金科玉条にしている・・(女性は加われない、女性排除)そして、(キリスト教の聖職者がこの様に手前味噌で決めた・・男の聖職者が)。
 このキリスト教の言葉を読むと、またまた、何をかいわんやの事をキリスト教は言っているな・・と、思う。
 キリスト教は、言っていることがシッ茶かメッチャカなのであると、つくづく思う。
 標記の言葉は・・良い事を率先して・・、
 人を導いて行くためもあって・・、
 人の上に立つということは・・、
 大いにあること、そして、必要でもあること。
 幸せになろうと・・人の上に立って・・
 共に幸せにと・・、
 頑張り努力する事は・・必要な事である。
 その様な人々によって・・世の中が、キリスト教が出来た頃より格段に・・良くなっている。
 その現代の幸せな状況が・・証明している。
 キリスト教のこの言葉が、誤解を生みやすい・・回りくどい言い方であり・・舌足らずである事は勿論、また、聖職者の言葉を借りなければ成立しないという不十分さがあると同時に、キリスト教聖職者の言葉を借りても、「謙虚に」と言う、至極当り前の、初歩の道徳レベルの話しにしか過ぎない。
 キリスト教の聖書は・・この様なレベルなのだ。
 キリスト教の教えが、こんなレベルだから、大切な命の話になった時、他人の命は自分のものでは無いから関係ないというキリスト教の考え方が浮き上がってくる。
 キリスト教は、聖書の何処にも他人の命は大切ですという大切な大基本の教えを教えていない。
 教えている事は、我が民族が生きて行くためには「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅しても良い」の教えとなっている。
 我が民族、我が命さえ・・生き延びればよいの・・教えの宗教なのだ。
 この様な、キリスト教の悪教義によって、あまりにも多くの方々が亡くなり、その数々の悲惨な歴史が、キリスト教の卑劣さを訴え・・立証して来た。
 キリスト教は、それを打ち消すために、キリスト教は、殉教した殉教したとプロパガンダ・嘘宣伝して来たが、
 長崎の26聖人だって、
 南米などでインカを全滅させて、次にメキシコとマニラ
(フィリピン)を餌食にしようと、スペイン艦隊は、メキシコ~マニラの往復で、太平洋をうろうろしていた。
 そして、表向きはキリスト教の宣教という形で、裏には植民地化の使命を持ったキリスト教宣教師が、日本へ渡来する。
 キリスト教宣教師は本国へ報告する、「日本がしっかりしているから無理だ」・・と、書簡を本国へ送っているし、
 日本は運よく、強力なトップの秀吉が、日本の統一を果たしたところだった。
 その事が、日本にとって運が良かった。
 そして、事態を知った秀吉が、マニラのキリスト教の総督附へ「日本征服などという行為はしない様に」という書簡を送っている。
 そして、秀吉は、キリスト教の禁教令を出す。
 その様な時、この秀吉の令に従えば何も起きなかったのに、一部のキリスト教宣教師と信者が無視して、罰せられた。
 これが26聖人、まったくキリスト教側の落ち度である。
 聖人などと称して・・誤解を一般の方々へ、キリスト教は伝えている。
 その様な、破廉恥な行為は止めるように・・。
 ローマ法王が、十字軍は間違いでしたと謝罪のミサをした様に、キリスト教は訂正し、悔い改めよ、嘘付きキリスト教よ!
 また、踏絵もそうだ・・、
 江戸幕府は、キリスト教が言う様な酷(ひど)い事をしていた訳では無いのだ。
 キリスト教は、南米だけでも1000万人という言語に絶する大勢の人々を殺したが・・、
 日本の場合は、その数の200000分の1だ。
 遥(はるか)に、遥に・・僅(わず)かなのだ。
 それも、本人では無くても、家族・知人であっても、『止めた』とさえ言えば・・すぐ幕府は許したのだ。
 キリスト教は、ひたすら悲惨に伝えようとするが、温厚な日本人は、そんな卑劣な事はしないし・・出来ないのだ。
 逆に、キリスト教は、殉教をしろ、殉教しろと勧(すす)めていたという「卑劣な行為をする宗教」と化していたではないか・・、
 だから、刑に服したいと子供連れで出頭して来たキリスト教徒も居たくらいな有り様だった。
 幕府は、「穏便に」「穏便に」と、したかったから、刑場の柵の一部を開けて、逃げられる様にしていたくらいだ。
 温かい日本人の心情を学びなさい・・と、言いたい。
 天草四郎の戦いだって・・、
 キリスト教は、しきりにキリスト教徒が殉教したと言うが、一方的な言い方で、偏(かたよ)っている言い方だ。
 まず、これは、キリスト教への圧迫・弾圧によって、キリスト教徒が立ち上がったという戦いだと、キリスト教が言うのは嘘で・・デッチアゲ。
 これは、単なる百姓一揆だったのだ。
 その一揆に便乗しただけなのだ。
 死者数も、ひらすらキリスト教はオーバーに言い、キリスト教徒だけのことを言うが、幕府軍も同じような人数の死者を出しているのだ。
 キリスト教徒だけオーバーに言うのは人々を欺(あざむ)いている。欺く宗教=キリスト教。
..
(詳しくは、以下のブログへ)
   http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
by nanboyanen (2014-08-12 03:07) 

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